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耳に残るは産声とドローン スイス人助産師が見たガザの野戦病院

ガザの野戦病院
ラファの赤十字国際委員会(ICRC)病院は、ガザでの紛争が8カ月に及んだ2024年5月に開院した ICRC

スイス人助産師のタマラ・ボンさん(44)は昨年秋、パレスチナ自治区ガザにある赤十字野戦病院に5週間派遣された。爆弾やドローン(無人機)がひっきりなしに飛び交う戦地でどのように出産に立ち会ってきたのか、話を聞いた。

ガザ南部ラファに設けられた赤十字野戦病院には、ごくありふれた日常もある、とボンさんは言う。例えば、地中海の夕景。ボンさんが赤十字の支援活動の一環として昨年10~11月にかけて5週間派遣された野戦病院は海岸に建っていた。水面に映る光が消えかける頃の夕焼けは壮観だ。

クリスマスを目前に控えた曇り空のチューリヒで、スイスインフォの取材に応じたボンさんは、「まあ、変えられないものも少しくらいはあるのだろう」と語った。

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60床あるこの病院には、他にも普通の病院と変わらないものがいくつもある。検診に訪れる女性たちとの実務的なやり取り。臨時の施設としては十分な医療設備の数々。出産の喜びや同僚との談笑。ニュースサイトを閲覧したり、米国の大統領選挙結果を予想したり――。。

だが、紛争で荒廃したガザの現実は、すぐ近くにあった。妊婦がロバの引く荷車に乗って訪れるのは日常茶飯事だ。新生児には栄養失調の危機が差し迫っている。職員の多くは複数の仕事をかけ持ちしている。やるべきことはあまりにもたくさんあるが、高騰する食費を賄うためにはお金が必要なのだ。病院の設備は充実してはいるものの、建物はテントで急ごしらえされたもので、患者のプライバシーはほとんどないという。

米国の大統領選挙が数週間後に迫った昨年10月、1万6000キロ離れたラファでは、イスラム組織ハマスの最高指導者ヤヒヤ・シンワール氏がイスラエル軍に殺害された。

ボンさんは、次のように回想する。「夕日だけを眺めていると、あるいはまだ浜辺や海にいる人たちを見ていると、世界で何が起こっているのか忘れてしまいそうになる。それがいいこともある。けれども、後ろを振り返ると、破壊された街並みや巨大なテントの群れが目に入り、自分が今どこにいるのかをはっきりと思い知らされる」

女性助産師たち
スイス人助産師のタマラ・ボンさん(左から2人目)とラファの同僚たち Swiss Red Cross

生まれながらの助産師

ボンさんは、助産師以外の仕事に就きたいと思ったことは一度もない。「5歳の時、へんとう炎の手術を受けるために入院したのだが、私の病室は分娩室の隣にあり、常に(助産師になりたいという)衝動に駆られていた」

出産に関わる仕事をしたいという思いだけが動機ではなかった。個人で独立して働けることも魅力だった。助産師という職業の社会的な重みはボンさんにとってさらに年を追うごとに明確になりつつある。さらに、出産は子育てのほんの一部に過ぎず、両親と子どもたちが家庭生活になじむのを助けることも、自身の重要な役割であるという認識も深まった。

2002年に資格を取得したボンさんは、スイスのさまざまな都市を転々としながらも、常に助産師として働いてきた。現在では、出産に立ち会う現場の仕事と助言者としての役割を組み合わせ、スイスの助産師協会でも積極的に活動している。

だが感受性の強い人にとって、恵まれた国というのは時に窮屈に感じられるものだ。ボンさんは「私がここスイスで育ったという事実を変えることはできない」と言う。ボンさんはもっと社会に貢献したかったのだ。こうした思いから赤十字の門を叩き、緊急の要請があれば危険な地域に赴く用意のある専門家の名簿に登録した。

この制度により、ボンさんはバングラデシュの難民キャンプに2度派遣された。勤務環境は厳しかったが、バングラデシュでは紛争があったわけではない。

そして昨年4月、ガザ南端の都市ラファが助産師を必要としているとの連絡が入った。ガザの他の地域が戦渦に巻き込まれる中、ラファには避難民が流入し続けており、その数は人口の約3分の2に上ると推定されている。ボンさんは半日考え、パートナーと話し合った上で赴任を決意した。

ラファの野戦病院は、赤十字国際委員会がスイスを含む11カ国の赤十字社とともに2024年5月に設立した。 60床のこの病院は、緊急外科医療、産婦人科、妊産婦、新生児医療、小児医療に対応し、外来部門もある。 集団傷病者管理とトリアージ能力も備えている。

2023年10月7日にハマスの戦闘員がイスラエル南部で1200人を殺害し、251人を誘拐したのを発端に、ハマスとイスラエルとの戦闘が続いている。ハマスが運営する保健当局によると、2024年12月初めまでに、ガザでは4万5000人近くが死亡、10万人以上が負傷した。 世界保健機関外部リンクによると、戦争前にガザ住民200万人に医療を提供していた病院36カ所のうち、17カ所はまだ部分的に機能している。

病院の門構え
ガザの病院の多くが紛争で機能していない中、ラファのICRC病院は緊急手術も含め、さまざまな処置に対応している ICRC

飛び交うドローン

こうしてボンさんは昨年10月、スイス・チューリヒをたち、ヨルダンの首都アンマンに向かった。アンマンでは丸1日かけて身の安全を守るための講習を受けた。パレスチナ自治区ヨルダン川西岸とイスラエルをゆっくり移動した後、厳重に警備されたガザに入り、エジプト国境に近いラファを目指して南下した。

たった1カ月強の任務は、永遠に続くわけではない。それでも、そう感じることがあった。ボンさんは毎日24時間体制で待機していた。5週間の任務で、体重は5キロ減った。

時間の感覚も失った。事前に「1週間は1カ月のように感じる」と警告されていた。そして、全身を覆う疲労感や夜を日に継ぐような日々、勤務先の病院と宿泊施設の往復のみに限られた移動範囲――、すべてがぼんやりとしてくる。

常に厳戒態勢を強いられるストレスもあった。いつ土のうが詰め込まれた防空ごうに避難しろと言われるか分からない中、爆弾やサイレン、銃声といった、戦闘の音が聞こえてくる。だが、ボンさんの記憶に強く残っているのは、常に上空を旋回しているドローン(無人機)の音だ。「かわいらしい小型のものではなく、芝刈り機のような大型のドローンだ」。夜もゆっくり休むことはできなかった。

ところが、ボンさんは決して怖くなかったと言う。自分たちを見守ってくれる人たちがいると信じていたからだ。支援物資の輸送船団に対する略奪や、人道支援活動家に対する脅迫などが報告されても、少なくともボンさんの気持ちが揺らぐことはなかった。故郷のスイスでは家族や友人たちが心配し、携帯電話に心強いメッセージを送ってくれたからだ。

そうこうしているうちに、日々は過ぎていった。ボンさんの仕事は朝7時半に始まり、現地の助産師を監督することが主な日課で、緊急分娩に飛び入りで加わることもあった。だが、これを頻繁に行う必要はなかったという。パレスチナ人女性の職員たちは極めて優秀だったからだ。地元の習慣についても、ボンさんより現地職員の方が詳しい。労働の現場はスイス以上に女性職員で占められており、男性職員が姿を見せたのは2回だけだった。

厄介だったのは、物資の管理だ。抗生物質が不足しており、使用を制限しなければならなかった。また、病院には乳児用のベッドが1台しかなかったため、ボンさんは何とかしてもう1台工面した。イスラエル軍とハマスの戦闘が始まって以降、紙おむつの価格は数倍に跳ね上がった。現地では、洗濯可能な布製のおむつで代用していた。

新生児を抱く助産師
新生児を抱いたボンさん。ラファのICRC病院では、2024年5~10月までの間に219人の新生児が誕生した Swiss Red Cross

当惑と誤解

その間も、紛争は続いていた。ボンさんが着任したのは、昨年10月7日にはハマスによるイスラエルへの大規模テロ攻撃から1年の節目の1週間後のことだった。直後の16日にハマスの最高指導者シンワール氏が殺害されたことを皮切りに、米国では11月6日にドナルド・トランプ前大統領が選挙で勝利し、同月27日にはイスラエルとレバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラが停戦に合意、12月8日にシリアのアサド政権が崩壊するなど、大きな出来事が続いた。

ボンさんはそれをどう考えているのだろうか? ボンさんは答えに詰まった。ガザに出発するまでは、主にこの地域の歴史を学ぶことに集中していた。そもそもなぜこのような複雑な対立が生まれたのかを知りたかったのだ。だが、ポッドキャストなどを通じてボンさんが議論に参加するようになったのは、スイスに帰国してからだ。

赤十字の代表として、任地では政治的な発言ができなかった。ガザでは紛争が予想以上に激化したことで、現地の支援活動家に対する言葉による暴力や物理的な攻撃に発展していた。論争のさなかにある国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)のみならず、スイス西部ジュネーブに本部を置く赤十字国際委員会(ICRC)も、パレスチナ側に偏っていると非難されている。

ボンさんはしばらく考え、チューリヒで行われたインタビューに同席していた赤十字の広報担当官の顔をちらりと見ると、このような悲劇がどうして起こり得るのか、そしてなぜ世界はそれを許してきたのか、「理解できない」という言葉しか出てこないと答えた。

当然、ボンさんは世界中で多くの紛争が起きていることを知っている。「けれども、現地に行った後で恐怖感を拭い去ることはできない。バングラデシュでの最初の任務の後もこんな感じだったし、帰国した後はいつも同じような感覚だ」

ボンさんがスイスに帰国すると、近代的なチューリヒの街ではクリスマス市が始まっていた。少なくともしばらくはこの町にとどまるつもりだ。ガザでの任務を終えた今、世界で最も安全な国とも言われるスイスでの経済的に豊かな生活と精神的な圧力に適応する時間が必要なのだ。

しかし、ボンさんはいずれまた慈善活動に参加したいと考えている。ガザに戻りたいという思いもある。できれば紛争が終わってからだが。「もしかしたら、ただ海岸に行って、もう一度あの夕日を見るためだけでも」

編集:Benjamin von Wyl/livm/ts、英語からの翻訳:安藤清香、校正:ムートゥ朋子

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